御柱祭
諏訪大社の御柱祭(おんばしらまつり)は御柱大祭(みはしらたいさい)とも呼ばれ、数え年で7年に1度、寅と申の年に信州(長野県)の諏訪地方一円を挙げて行われ、俗に天下の大祭とか、富士吉田の火祭りや静岡県島田市の帯まつりと並び天下の三大奇祭などと呼ばれ、雄壮な木落としなどで全国的に知られているお祭りです。
ちなみに、正式名称に定説がないこのお祭りの事を諏訪大社は公式な場などでは「式年造営御柱大祭(しきねんぞうえいみはしらたいさい)」と呼んでいます。多くの場合、「御柱祭り」ではなく「御柱祭」と表記されています。また「おんばしらまつり」ではなく「おんばしらさい」と呼ばれる場合もあります。…と書いてきたのはもう10年以上前。今は「おんばしらさい」と呼ぶのが完全に主流になっているようです。
諏訪大社は諏訪湖の南側の諏訪市にある本宮と茅野市にある前宮を総称して上社と、また諏訪湖の北側の下諏訪町にある春宮と秋宮を総称して下社と呼んでいます。
お祭りは大きく2つに分かれていて、4月の上旬に行われる前半を山出し祭(平成10年の場合、上社4月3,4,5日、下社4月10,11,12日)、1ヶ月後の5月の上旬に行われるのを里曵き祭(平成10年そして平成22年の場合、上社5月3,4,5日、下社5月9,10,11日)と呼んでいます。それらが上社と下社においてそれぞれ3日づつ行われるので、祭りの本番だけで合計では12日間行われることになります。
山出し祭は奥山の大木を里まで曳き出すまでの祭。現在は4月の上旬にまず上社が3日間、その翌週に下社が3日間に渡って行われます。途中に坂があれば木落としをし、途中に川があれば川越しをし、ただひたすらに御柱を運びます。里曳き祭は山出し祭から約1ヵ月後、途中で休んでいた御柱は各お社を目指し、そしてそれぞれの4隅に建て御柱が行われます。また里曳き祭では御柱の曳行に先だって御柱行列と呼ばれる、騎馬行列や長持ち、花笠踊りなどが練り歩きます。
御柱とは直径約1メートル、長さ約16メートル、重さは約12トンもある樅(もみ)の大木の事です。このお祭り、何をやるかと言えば、この樅の文字通りの大木を奥山から延々と里の四つの諏訪大社のお社まで引き付け、社殿の四隅に建てるというものです。
通例、上社は八ヶ岳山麓の諏訪大社の社有林である御小山(おこやさん)から伐採された樅の木が、下社は下諏訪町の東俣国有林から伐採された樅の木が御柱となります。
ただ、平成10年のお祭りでは伊勢湾台風の影響で今回の御柱に適した樅の木が御小山にないということで、史上初めて東俣(ひがしまた)国有林で伐採された樅の木がトラックを使って御小山まで運ばれ、上社の御柱となりました。次の平成16年には諏訪地方から飛び出し、隣の立科町で伐採されました。そしてまたその次の平成22年も立科町から御柱がやってきます。そしてこの状態はあと数回続くと言われています。
この祭りの起源は大変古く、一体いつから行われているのかは定かではありませんが、諏訪大明神畫詞(すわだいみょうじんえことば)という書物によると今からおよそ1200年前の延暦20年の蝦夷征討の時の戦功に報いる形で時の桓武天皇が延暦23(804)年、信濃の国(今の長野県)の国祭として費用を信濃の国全体で負担するようにと国司に命じたとされているのが記録に残っている最古のものとされています。桓武天皇が命じた信濃国全体での負担ですが、伊那谷と佐久平そして善光寺平が上社、松本平と南北安曇野及び更埴が下社をそれぞれ負担したとのことです。ちなみに、平成10(1998)年、戊寅年(つちのえとらどし)のお祭りは桓武天皇が国祭としてから丁度200回目と言われています。
式年遷宮ということで、中世までは御柱祭の際には鳥居などを含めてすべての社殿が建て替えられていたとされていますが、江戸時代以降は4本の御柱と東西の御宝殿が交互に立て替えられるだけになりました。
また、明治までは御宝殿は建てられた後、六年間清められてから奉るようになっていましたが、明治以降は建てられてすぐ遷座されるようになりました。現在、上社は御柱祭も終わった6月15日に遷座祭が行われています。
明治維新を経て、高島藩による差配がなくなった明治5(1902)年に酒とケンカの御柱祭となってしまい、その後そのような事が起らないようにと細かな取決めがなされるようになりました。
御柱祭は大変歴史があるお祭りでありながら、平成10年のお祭りで「諏訪大社の御柱祭(おんばしらまつり)」として「長野県の無形民族文化財」に指定されるまで、文化財の指定は一切受けていませんでした。それは、このお祭りを全国的に有名にした木落としなどかなりの危険を伴うお祭りのため、平成4年のお祭りまで5度連続死者がでるなどしていたためとされています。しかし、平成10(1998)年に長野で行われた冬期オリンピックの開会式で全世界に建て御柱(たておんばしら)を披露することになったので、やむなく指定されました。
長い歴史の中には開催が危ぶまれる事もありました。伊勢神宮の20年に1度の遷宮が120年に渡って絶える事になった戦国時代、江戸時代の天保の大飢饉、若い男のほとんどが戦地へと赴いてしまった第2次世界大戦中の昭和19年など。しかし、寅と申の年に諏訪の地で御柱祭が行われなかったという記録は残っていません。いえ、苦しい時ほどでかい御柱を曳行したものです。昭和19年には学童を動員して年寄りが指揮を取り無事にお祭りをやり遂げたと言われています。
諏訪大社の御柱祭だけでは終らないのが、諏訪の御柱のすごいところ。御柱の年である寅と申の年は諏訪一円のあらゆる小宮でもそれぞれの地区や団体ごとに御柱祭が行われるのです。中には「大社には胸を貸しだけ。本当のお祭りは小宮の方だ」という人もいるほどです。
ところで、この御柱祭、実は何の為に行われているのか今となては誰も知らないんです。なにしろ、諏訪大社自身がなぜこのお祭りが始まったのかはわからないそうです。そこで、様々な説が唱えられています。